慣れてないのですみません。と謝っておくブログ

詩を書いたり書かなかったりします。

冬の目

私は、詩誌も詩集も買いません。
興味がないわけではなくて、余裕があれば買うでしょう。
そう思うこともあったのですが、マンガならすぐさま買うことを思うと、やはり自分一人だけのために物を買い、それが居住スペースを浸食していくことが、家庭として好ましくないと思っていたことも大きいと思います。
理解のないものが、日常生活のそこかしこに置かれるようなったなら、そこは安らぐ場ではなくなってしまうと思うのです。
そうは言っても、そこここにガンダムのプラモデル等が置いてあって、掃除に邪魔になるわ持たせた銃は外れるわ、掃除機のブラシを使ったらザクの額部分のブレードアンテナとかいうの吸いこんじゃったやとか、そういうのに我慢できるのは、少なからずも私が初期ガンダムを好きだからで、これが美少女フィギアであったならば、家庭生活に亀裂が入るものと思われます。
そんな私が、それでも数冊一度に詩誌を購入したことがあります。
それは詩を趣味として興味を持ち始めたころだったでしょうか。まだPCも持っておらず、詩誌などというものが売っているわけのない田舎の蔦屋で注文をしたものでしたが、主要な詩誌の名前さえもよく判っていない状態でした。
蔦屋の店員さんには、「PCで注文すれば早いですよ」とさも面倒くさそうに言われましたが、持っていないものはしょうがありません。
それ以前には、PCを持っている姉に購入を頼んだこともあったのですが、義兄にも知れることとなったその詩誌を、胡散臭そうな、訝しげな目で見ながら渡してくれたのは、姉ではなく義兄だったので、これは情報が筒抜けになってしまうと後悔したものでした。
その態度は、新興宗教の本だとか、効き目の良く分からない栄養食品を購入する片棒を担がされたような不快な表情と態度でした。
それ以降、PCを持つようになってからも自分から詩誌を購入することはほとんどなかったのですが、先日掃除をしたときに、その昔蔦屋で注文した詩誌の一冊が出てきまして、昨日ふとその詩誌の読者投稿欄を眺めてみたのです。
その中に、選者の一人にとても認められている方がいました。
その選評には、「詩としての機能をほとんど持っている稀有なもの」「詩を書くために生まれてきたような鋭い感性がある」「周囲から抽象的、観念的という反論があっても、このままこの詩的世界を突き進めていけばよい」というような言葉が並び、投稿したその作者さんにはなんとも心強いものになったであろうと思われました。
私はあまり詩を書くほうではありませんし、いずれ書きたいと思っている詩というものは、世間一般的には良い印象を与えない、非難される類のもので、心のうちの淀を昇華するようなものなのですが、もし私好みの詩の描き方をしてくださる詩人さんがすでに居たり、現れたりして、私が思うところと同じような詩を書いていてくださるのならば、私自身が詩を書く必要はなくなるのだと思っているのです。
そのため、読者投稿されたときのネームで検索をして、今現在も詩を書き続けている方かどうか確かめてみたのですが、詩が載せてあったと思われるページは記事がなくなっており、ライターをしているらしいとリンクをしていた方の紹介文から分かりました。
投稿ネームというのは、少しばかり変わったネームにする方もいますし、同じネームを使い続けているかどうかも分かりませんが、そのネームにとても雰囲気の似た、同じ部分もあるWeb上のライターの記事がいくつか見つかりました。
芸能記事でした。当たり前のように詩的表現はありませんでした。
ですが、私にはそのライターの方が、読者投稿欄にて入選していた方ではないかと思うのです。
そう思う理由は、似たネームというだけしかないのですが、もしそうだとしてその方はライターとして稼いで生きているわけで、そのために詩は葬り去ってしまったのではないかと思うのです。
自分のノートに、自分だけが見えるネットのどこかに、いまでも書いた詩は残してあったとして、ただ職業上、今まで書いた詩は人の目から葬り去ってしまったのではないのかなと。

詩を書く人は、詩を書く理由がなくなるといなくなる。
それは冬眠に似ていて、目覚めればまた詩を書くのだけれど、暖かい棲家で浅く眠る間には、仕事をして、義務を果たし、守るべきものを守る夢を見る。
目覚めればそこに厳しい冬があって、春に目覚めるものはほんの一握りなのです。