慣れてないのですみません。と謝っておくブログ

詩を書いたり書かなかったりします。

宛先人不明

 やらなくてはいけないことを後回しにしてしまう私は、実はそれを楽しみにしている。例えば、キッチンの洗い物とか乾いた洗濯物を畳むこと。つい山盛りにしてしまいがちな自分を省みてよくよく考えてみると、私は洗い物も洗濯物を畳むことも嫌いではないことに気付く。むしろ自分のペースで作業できるのなら好きかもしれない。何も考えないで、ただ食器をきれいにし整然と片付けてゆく。ときおり窓からの景色を見やる。裏のお宅の人の出入り、間の空き地に茂みはじめた木々の揺らぎ。皺を伸ばした衣類は自分基準で畳んでゆく、その重なりの一揃えを積み重ねてゆく。塔を作る。TVでは人が殺され、関係のない他人のはずの主人公が引っ掻き回して捜査を始める、その犯人と対峙するロケ地となった景観。そんな時間が有り余る状況であったときでさえ、洗い物は溜まるし、ソファーには洗濯物が山となる。そう、単に時間の使い方が下手なのだ。自分のやりたいようにやれないのならば、やりたくない。そして、自分のやりたいようなやり方は、きっと馬鹿丁寧過ぎるのだと思う。陽の暮れることのほうが早いのだから…。そして、今私がまずやり終えておきたいことは、このブログを書くことではなく、手紙か葉書を書くことだ。もう2日も投函するのが遅れている。楽しみは後に取っておく。楽しい事はそれまでの期間も楽しみ。友への手紙を書かない私は、友への手紙を書くという楽しみを引き延ばしているともいえる。無精ということの怠惰な楽しみ。

 私は今夜、手紙を書くだろうか。実際のところ、レターセットもないのだから葉書、または二つ折りカードに用件を書いて、付属封筒に入れて出すだけの簡単なものになるのは分かりきっているのだけれど。私のことだもの。何もかも書いたら、それはさよならの手紙だろう。

 

 あの枝ぶりのいい木を見て 

ちょうど縄を引っかけるのにいいような枝の張りと高さのあるダケカンバ。 

 ここは国定公園内だろうし、登山道だから人が多く通るからダメだね

あの意味のあるようで、実は全く意味のない会話。

私はあなたに記憶を残しておきたかっただけ。

「もし、行方不明になったらここを探して」という冗談とセットで、記憶の中に生きたかっただけ。

私が今、こうしてブログを書いていることと同じ。