みんなきらいだ
きらいな人ばかりが増えていくわたしの人生で、ひとたび嫌いになった人と距離を置くことは誰でもするでしょうけれど、わたしの場合は縁を切ります。それは、親しい関係でも深い関係でもない、隣近所同級生親類縁者もろもろすべて、ストレスを感じるとすぐに縁を切ってしまいます。一般的には、距離が開いたり、生活の変化により徐々に疎遠になってゆけば、それは合意のもののように悪化するわけでもなく再会を喜ぶこともできるでしょう。けれど、わたしの場合は切ってしまうのです。「ちょっきん」と断つ音が響きます。なので、修復もなく再縁もなく、相手の不快感はわたしという名の名刺となります。
そうしてわたしは生きてきたから、淋しいときはかんがえます。彼女たちの生活に、興味に、付き合うべきであっただろうかと。
するとそれはストレスで、自分が壊れてしまうであろうから、無理であったと結論がでます。
なので私は、淋しいことも自分の内で、なんとか出来るのだと思います。
淋しい、淋しいは、幸せ、幸せに似ている顔をわたしに見せます。
誰に煩わされるでもなく、誰を煩わせるでもなく、居たか居ないかで言えば、そこにある木と同じです。
なので、ごくたまに枝を伸ばすと、とても嫌がられます。
わたしの敷地に入って来ないで、と。
そんな態度にも慣れてきたから、森を見ても森に帰らず屋根の上で歌います。
それがわたしでしたから、たまに泣くのは許してください。山に帰れない鴉ですから。